手計家物語

とりあえず整理用に列挙しておく。

----------(「埼玉県史」より抜粋)----------
てばかむら 手計村<深谷市>
【近代】明治22〜23年の榛沢(はんざわ)郡の自治体名。埼玉県北部、利根川と小山川にはさまれた低地に位置する。大塚、血洗島、上手計、下手計、横瀬、町田、南阿賀野、北阿賀野の8か村が合併して成立。大字は旧村名を継承。村名は合併各村のうち大村であった上手計、下手計両村名による。明治23年八基(やつもと)村と改称。現在の深谷市北西部。

てばかむら 手墓村<深谷市>
【中世】鎌倉期からみえる村名。榛沢(はんざわ)郡のうち。文永5年5月30日の注記のある岩松持国本領所々注文に「手墓村」と見える(正木文書)。貞治2年5月28日の鎌倉公方足利基氏御判御教書によれば「武蔵国榛沢郡滝瀬郷内下手墓村」が岩松直国に宛行われており、この頃、上手墓村、下手墓村と分村していたと思われる。のち貞治3年6月11日の鎌倉公方足利基氏書状案写に「手波賀郷」とあり、安保信濃入道が以前拝領していたことがわかる(正木文書)。「松蔭私語」に五十子(いかっこ)の戦いの際、五十子の近辺「手斗河(てはか)河原」などに桃井讃岐守・上杉・上条などの諸将7000余騎が陣を取ったことが載せられている。現在の深谷市大字上手計・下手計のあたり。
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【ここからは父の研究成果】

ご先祖様は、「源義明〜武蔵武士団武蔵七党〜猪俣党」の中にある、
『手薄加七郎』(てばかしちろう)(http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100622.html)と思います。

http://www3.plala.or.jp/KakuhouARC/69rekisi.htm
1156年保元元年「保元の乱」の猪俣党の中に『手薄加七郎』の名があります。

保元物語上巻「官軍勢沙へ」にその名前が出てきます。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hog7.html(この現代語訳には出ていま
せんが,原文では出ています。)
*歴史読本の保元物語に出てくる「武蔵武士名一覧・猪俣党」の中に『手薄加七郎』が出ています。

その他、歴史資料
http://www3.plala.or.jp/KakuhouARC/69rekisi.htm
1156年保元元年「保元の乱」の猪俣党の中に『手薄加七郎』があります。

要は、下記に挙げる「岡部六弥太忠澄」の繋がりで、『手薄加七郎』は武蔵七党〜猪俣党の筆頭「岡部忠澄」の同僚か部下、一族というところでしょう。
その武勇伝は、「岡部忠澄」と一緒に、兵庫県神戸市「一の谷の戦い」で、平家を滅ぼしたことでしょう。
発祥は、武蔵武士の発祥と同じで、『荘園』からでしょう。

と思う根拠は・・・

父(太一の祖父)の生まれたのは、岡部村(現在:大里郡岡部町)で、
岡部の地名の云われは、猪俣党の筆頭である「岡部六弥太忠澄」(http://members3.tsukaeru.net/penguink/
musashi/okabe.html)からです。
*「岡部六弥太忠澄」の武勇伝は、HPから見て下さい。

「岡部六弥太忠澄」の墓(http://www5.big.or.jp/~ejiri/nakasen/exp/vk04/09okarok.htm
http://sky.zero.ad.jp/~zac28831/syashin-genpei6.htm)は、手計家の並んでいる墓地のすぐ隣です。
手計家の寺は焼けて現在ありませんが、「岡部六弥太忠澄」の城(館)の隣です。

江戸時代には、「岡部六弥太忠澄の墓」は、観光地だったようで、街道には市(土産物屋?)が立っていたという絵が道の駅「おかべ」にありました。

因に、岡部から川を挟んだ下手計、上手計には、手計家の墓は一つもありません。
近代になり、隣の血洗島村は、渋沢栄一の生地で、伝記「威風堂々」の冒頭に手計村が出てきます。

●血洗島村〜栄一の生まれ故郷〜
 現在の埼玉県深谷市の辺りに、血洗島村、手計(手墓)村などという、不穏な名の集落があった。この血生臭い村名には、幾多の伝説が伝えられていた。そ
の一つは赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕を取られ、その傷をこの地で洗ったという。また、武将の首を首実検に供える為、小川の水で洗ったともいう。
 隣りの手計村には、切り落とされた武士の手ばかりが流れ着いたとも伝えられている。また、八幡太郎義家が、利根川岸の戦いで片腕を切り落とされ、その血を洗った村で、その腕を葬った所が手計(手墓)村の村名の起因だとも伝えられている。
 ともかくこの血洗島村に、渋沢の始祖が開拓した時、はじめは戸数が五戸だった。その後天保十年(1839年)頃には六十三戸となり、渋沢姓は十七戸になった。そして分家の数が増えるごとに、その位置によって東の家、新屋敷、古新宅、等々と呼び分けていった。
http://www.geocities.jp/kazumihome2004/1.html


河匂三郎政成
保元物語、源義朝に相随う手勢の者共は乳母子の鎌田の次郎正清を始めとする250余騎の中に猪俣には、岡部の六郎、近平六、河匂三郎、手墓の七郎と四名の名が記されている。
http://www.ksky.ne.jp/~imatakao/page4.html

あれれ〜、ここでは『手墓』になっちゃたよ〜

以下、2006/3/31追記。
http://72.14.203.104/search?q=cache:FhyWPROqi1MJ:www.ksky.ne.jp/~imatakao/page4.html+%E6%89%8B%E5%A2%93&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=60

河匂氏(かわわうじ)
猪俣野三郎忠兼の長子忠基の第二子政基は児玉郡の古郡(ふるごおり)と阿那志 (あなし)の間にある河匂(川輪)(埼玉県児玉郡美里町)に住んで河匂野大夫と称した。館跡について明確な伝承はないようである。吾妻鏡にも河匂七郎政頼が東児玉村大字関に住したとの記事がある。しかし美里町史によれば古図もなく遺跡地は不明である。姓氏家系大辞典(太田亮)によれば武蔵国都築郡河匂邑より起るとしている。角川日本地名大辞典によれば児玉郡美里町としている。美里町にある諏訪山の河輪神社の社伝によると武蔵七党の一つ猪俣党河匂氏の本貫地として、河匂七郎、河匂左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行ったという。従って近くに館があったと考えるのが妥当であろうか。

諏訪山の河輪神社
鎮座地は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山である。

志戸川新大橋から川輪方面の遠景

河匂三郎政成
保元物語、源義朝に相随う手勢の者共は乳母子の鎌田の次郎正清を始めとする250余騎の中に猪俣には、岡部の六郎、近平六、河匂三郎、手墓の七郎と四名の名が記されている。文治五年七月十九日、源頼朝奥州追討軍、鎌倉出御より御供の輩に河匂三郎政成、同七郎 政頼の名がある。河匂七郎政頼三郎政成の弟。源頼朝に気に入られたのか身近に仕える。吾妻鏡に記載されている。
事項をあげ ると次のようである。

河匂三郎実政
三郎政成の二男。刑部丞。

河匂七郎三郎
七郎政頼の子息と思われる。建久元年十一月頼朝上洛。先陣随兵十六番河匂三郎実政と並んで 供奉する。

河匂小太郎好保
三郎政成の孫. 承久の乱で敵を一人討つ手柄をたてる。またこのほかにも「吾妻鏡」嘉禎四年(1238)二月十七日条に将軍藤原頼経が入洛した際に供奉 の随兵192騎の二番目に猪俣左衛門尉(範高)と河匂野内の名が併記されている。またどのような事情によるのかわからないが、河匂三郎実政系の河匂氏は播磨国三野南条の地頭 に補任されていたようである。正応二年(1289)五月六日、幕府は六波羅探題に播磨国松原八幡宮別宮の雑掌の訴えにより、同国三野南条内目賀津の神役勤使につき、地頭河匂入道幸蓮の妨げを調べさせているので、これ 以前に地頭になっていることがわかる。正安二年(1300)八幡宮神役について松原八幡別宮惣検校任耀と河匂幸員で相論があり和与が なされていた。しかし建武二年(1335)今度は任耀と河匂刑部入道宗連と河匂孫九郎入道親阿等の間で相論が起こっている。 (児玉町史中世資料編)

河匂新左衛門高遠
備前児島の三宅三郎高徳は新田義治を大将に王事に奔走していた。このころ丹波国の住人荻野 彦六朝忠が将軍尊氏に恨みを含んでいると聞いたので連絡をとり、両国で叛旗を挙げようとしたところ、事は忽ち漏れて、丹波へは山名伊豆守時氏が三千騎で押し寄せたので荻野朝忠は降参 してしまった。児島へは備前・備中・備後三ヶ国の守護五千余騎が寄せたので、高徳は本意を 遂げることかなわず、大将義治と共に京へ上がった。将軍足利尊氏父子をはじめ高・上杉諸將の館に夜討をかけ一気に之を撃滅しようとした。先ず麾下の兵一千余騎を四手に分けて各地に分散待機させると共に、これを手引きする精兵を 四条壬生の辺に忍ばせ、手筈万端をととのえて時の到るを待っていた。ところが不運にも前日になって計画が漏れ、所司代都築入道が二百騎でもって忍びの者がかくれて いる四条壬生の宿へ未明に押寄せた。忍びの者達は死力を尽くして戦ったが多勢に無勢全員悉く討死し、折角の企ても水泡に帰した。ところがこの乱戦の中で、武蔵国住人香匂(河匂)新左衛門高遠という者ただ一人地蔵菩薩のご慈悲によって死を遁れた。その時の様子を太平記では次のように書いている。

三宅荻野謀反事(ミヤケオギノムホンノコト)付壬生地蔵の事
(太平記巻二十四)
「さても此日壬生の在家に隠れ居たる謀反人共、遁がるる處無く、皆討たれける中に、武藏の国の住人に、香匂(かわわ)新左衛門高遠(たかとお)と云ける者只一人、地蔵菩薩 の命に変らせ給 ひけるに依て、死を遁れけるこそ不思議なれ。所司代の勢已(すで)に未明より四方より押寄て、十重二十重(とえはたえ)に取巻ける時、この高遠 只一人敵の中を打破て壬生の地蔵堂の中へぞ走入たりける。何方(いずかた)にか隠(かくれ)ましと、彼方此方(かなたこなた)を見る処に、寺僧(じそう)かと覚しき法師一人、堂の中より出たりけるが、此高遠を打見て、「左様(さよう)の御姿にては叶(かなう)まじく候。此念珠(ねんじゅ)に其太刀を取り代て、持たせ給へ。」と云ける間、げにもと思ひて、此法師の云儘(いふまま)にぞ随ける。斯(かか)りける処に寄手共四五十人堂の大庭へ走入て、 門々をさして残処無くぞ捜しける。高遠は長念珠を爪繰(つまぐり)て、「以大神通方便力(いだいじんつうほうべんりき)、勿令堕在諸悪趣(もつりょうだざいしょあくしゅ)。」と高らか敬白(けいびゃく:表白)してぞ居たりける。寄手の兵共皆之を見て、誠に参詣の人とや思けん。敢えて怪め咎むる者一人もなし。只仏壇の内天井の上まで打破りて捜せと許(ばかり)?(ののし)りける。爰(ここ)に只今物切たりと覚しくて、 鉾(きっさき)に血の著(つき)たる太刀を、袖の下に引側(ひきそば)めて持ちたる法師、 堂の傍に立ちたるを見付て「すはや、此にこそ落人(おちうど)は有けれ。」とて、抱手(だきて)三人走寄て、中に挙打(あげうち)倒し、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)て、侍所へ渡せば、所司代 都築入道是を請取て、詰牢(つめろう)の中にぞ入れたりける。翌日一日有て、守手(まもりて)目も放ず、籠(ろう)の戸も開ずして、此召人(めしうど)くれに失にけり。預人(あずかりうど)怪み驚て其の迹(そのあと)を見るに、馨香(けいきょう:いい香り)座に留りて恰も牛頭旃檀(ごずせんだん:牛頭山から出る旃檀)の薫の如し。是のみならず、「此召人を搦捕(からめとり)し者共の左右の手、鎧の袖草摺(くさずり)まで異香に染て、其匂曽て失せず。」と申合ける間、さては如様(いかさま)直事(ただごと)にあらずとて、壬生の地蔵堂の御戸を開かせて、本尊を見奉れば、忝(かたじけなく)も六道能化(りくどうのうげ)の地蔵薩?の御身、所々刑鞭(けいべん)の為、?(つし)み黒(くろ)みて、高手小手に禁(いましめ)し其縄、未だ御衣の上に 著(つき)たりけるこそ不思議なれ。是を誡(いまし)め奉りぬる者共三人発露涕泣(はつろていきゅう)して罪障(ざいしょう)を懺悔(ざんげ)するに猶を堪えず、忽ち本鳥(もとどり)を切て入道し、発心(ほっしん)修行の身と成りにけり。彼は順縁に依って今生に命を助り、是は逆縁に依って来生(らいしょう)の値遇(ちぐう)を得る事誠に如来附属の金言(きんげん)相違せず。今生後生(こんぜごせ)能く引導す。頼もしかりける悲願也。